稲川素子さんを偲ぶ 70歳からでも遅くない人生再出発
森田明夫
先日友人の母親である稲川素子さんを偲ぶ会が東京オペラシティーコンサートホールでしめやかに行われました。往年90歳、10年超大腸がんと戦いながら、でもとても安らかな最後だったそうです。ご冥福をお祈りします。
さてその友人とは稲川佳奈子さん。とても素敵なピアニストです。私が学生のころに知り合った時は20歳そこそこでしたが、お母様と一緒に、私どもが主宰していた東京大学医学部の絵画クラブである踏朱会にいらしてその部活に参加されたいとお会いしたのが最初でした。本当に汚れのない清楚さをもつ美少女?美女?で、当時流行りのディスコとかそういった必要のない知識や雑念がまったくない人でした。福岡の中学から、桐朋音楽高校、大学と進まれ、それまでのほぼ全てをピアノに費やしてきた人でした。以前「高嶺の花子さん」とかいうドラマがあったかと思うが、その言葉のまんまで、私のような大学入学まで勉強しかしてこず、大学に入って遊びまくっている者にはちょっと近寄りがたいオーラを持った人でした。でも明るくて、合宿と称したキャンプなどにこられると、川辺で野生のルッコラを見つけて、サラダにしてくれました。ちょっと恐る恐る食べたら、そのルッコラがすごく鮮烈な香りだったのを記憶しています。1984年の朝日新聞社主催の新人音楽コンクールで1位を取りながら、日本でのショパンコンクールで2位となり、残念ながらワルシャワの本選にはいけなかったそうですが、とても明るく振る舞われていました。大学卒業からかれこれ30年後の2013年に私の日本医科大学の教授就任の会で彼女に素敵なピアノ演奏をしてもらいました。素晴らしい演奏でした。もちろん今回のメモリアルコンサートでの主に桐朋の友人たちとのオーケストラで演奏された「皇帝」もすごい超絶技巧を披露されていました。その後本人は練習不足!!と言われてましたが。
さて娘さんの紹介から入りましたが、学生時代、時々同伴で来られていたお母さんは、もうすごい方で、娘さんのピアノのために色々なことを努力してこられたようでした。車で大牟田から博多まで毎日2時間の道をドライブしてピアノ教室に連れて行ったり、ピアノレッスンのために学校を早退するなどの色々な交渉をしたり。愛情深く育てられていたようです。(これは追悼の会でのメモリアルビデオで知りました。)元々は華族のご出身で高校生くらいまではかなり病弱で東大病院などにも入院されていたとのことですが、成人されてかはものすごくエネルギッシュでした。
佳奈子さんが成長され大学卒業後、一人前になると、素子さんの努力の矛先は、自分の周りで出会った困った人たちの問題の解決に向かいました。当時は外国人のキャスティングに困っていたテレビ局がたくさんあったらしく、佳奈子さんが出演した番組で、フランス人のピアニスト役が見つからないのを、日仏会館に行って探してきたり、イタリア人のマフィアの役とかが見つからず番組スタッフが困っていたのを、六本木の交差点でヤクザっぽい外国人を見つけて(本当のやくざだったらしい)声をかけてその人の事務所(ヤクザ事務所)に行って直接出演交渉したりしたらしい。50歳を過ぎてから、偶然はじまったそのような手助け・声かえ・外国人タレント求人が、業界で評判を呼び、現在の稲川素子事務所という外国人タレントを延べ5000人超も抱える大事務所を樹立することになったそうです。恐れずに、躊躇せずに目的に向かって、全力でぶつかってゆく姿勢と持ち前の明るさを持って克服していきました。芸能界では知らない人はいない状況で、メモリアルにも多くの芸能人がこられていました。フジテレビの「笑っていいとも」にもゲストで呼ばれたこともあるらしくタモリさんとのやりとりもビデオにありました(その際のやり取りはこちら)。その他、東西で分裂しかかっていた日本ボールルームダンス協会を東西行脚して説得して一つに再結成させたり、美術と音楽を融合させた河口湖森の美術館の館長を務めたり。その傍ら、中退していた慶應大学文学科に再入学して、70歳で卒業、その後72歳で東京大学の大学院に進み東京大学で学位を取得などという離れ技もされたようです。よく日本の脳外科の父とも言える佐野圭司先生が口にされていたミケランジェロの言葉であるAncora imparo(人生を通して学べ)またancora imparo e creo(今も勉強し創造している) をまさに体現されていた人だと思います。何を始めるにも遅過ぎたということはない。いつからでも新しいことは始められる。真正面から、まっすぐに、真摯に、一生懸命努力すれば、何か突破口は開ける。もしうまくいかないことがあっても後悔はしないですむ。何かやり残したことがある上で、失敗すれば、それは後悔にしかならない。そんなメッセージをもらった偲ぶ会でした。芸能界また分断したダンス協会など、閉鎖的な、慣習の中で手続きやしていることがマニュアル化し、心も固執してしまっている世界に、internationalな開かれた目で対応する力を持ち込んで救ったのだと思う。この話は今の医療にも十分当てはまります。安全や利益ばかりが話題となる医療界。確かにどちらもすごく大事ですが、患者さんや、家族、そして職員の心への対応はどこにあるのでしょう。
稲川素子さんは、その人生で、一人の力が、大きな力となることを示してくれました。
私自身はご本人と直性お話ししたことはわずかしかないのですが、もし学生時代に戻れるなら、一度じっくりお話ししてみたいと思います。少し私の人生も変われたかもしれません。
現在私も、稲川素子さんが大学を卒業した70にあと少しで届いてしまいます。これまでのしてきたことも土台にして、何か新しいことができるか考えてみようと思います。あまり凝り固まった思考ではなく自由な発想で。
もちろん今の仕事はしっかりと、ちゃんとしながらの話です。
ちなみに稲川素子さんの大好きな言葉は「一途、ひたすら、精一杯」だそうです。
またよく否定的な回答をされると、「さりながら、、、」という言葉を使って、困難を乗り越えてきたとのことです。
言葉には、力がありますね。
雑談:
以前紹介し、ほぼ7年間通った○○ップをとうとう退会してしまいました。ちょっと今週の大半を過ごしている大森、蒲田付近に店舗がなくて行きづらいのと、月に1~2回セッションをした後、体調が悪くて採血したところクレアチニンフォスフォキナーゼ(CPK)という筋肉酵素が血中でものすごい異常高値になっていることを知ったのが主な理由です。もちろん筋トレは筋肉を破壊して再増殖させて筋肉を大きくするという所作ですので、CPKが上昇するのは当たり前なのですが、度が過ぎると腎障害をきたす可能性もあるのです。
今日の話題の「歳をとってもなんでもできる」とは拮抗する言葉ですが、やっぱり「年寄りの冷や水」となりかねません。頭はどんなに使っても良いと思いますが、特に体を酷使するトレーニングは注意しないといけません。
そこで代わりとは言えないですが、毎朝30~40分早起きして朝散歩の習慣をつけることにしました。日本医大の時は自宅から大学まで片道2kmなので、毎朝・夕徒歩通勤していたので、そこそこ歩いていましたが、退職後広島、そして大森に移って、ほぼ1日の歩数は2~4000歩止まりとなっていました。散歩を始めて平均9000歩/日くらいになっています。今のところ三日坊主ではなく続けられております。散歩していると今まで気づかなかったことに気づきます。こんなところにお店(主に飲食店)があった、こんな芸術作品のお店がある、こんなことをする工場がある、こんな木や草花が植えてある。こんな公園がある、ここは昔は水路で今は暗渠になっている、ポンプ所の跡だとか、さらに季節の移り変わりが直に伝わる。風や空気の匂い、光、色に敏感になるように感じる。元々○○ップに通うことにした理由は、躊躇なく歩き出せる体になりたいということでした。当時(今も少しリバウンドですが)は脂肪をたっぷりと纏っていたので、何せ動くのが億劫だったのです。体を動かさないでいると頭の中もなんか怠惰になってしまうように思います。それを体重を少し減らしただけでとても身軽になったのを覚えています。
皆さんも少しで良いので、運動は続けましょう。週5万歩、週3回8000歩以上するかしないか?色々基準があるようですが、それで様々な人生疾病リスクが変わるようです。米国では食べてテレビばかり見ている人をcouch potatoと言います。ソファーに座ってポテトチップばかり食べている人です。そうはなりたくないものです。
写真;
散歩の風景 秋の空、垂れたひまわり、釣る人たち、水鳥
大田区の水路と秋の空
大田区の広い空と羽田空港の朝焼け