太閤記に学ぶ先の見えない世界の生き方
森田明夫
今年のNHK大河ドラマは豊臣兄弟を放映しており、自分も毎週見させてもらっていますが、過分な創作が批判を浴びています。多分元々豊臣秀吉の生涯などもよほど歴史の表舞台に残った大戦などを除けば、後日さまざまな創作や修飾が加わったものと思われます。例えば有名な信長の草鞋を懐で温めて出したという誰でも知っているような逸話は、吉川英治の新書太閤記にはありません。ましてやその腹違いの弟の秀長の記載などは、ほぼ創作で作るしかないのだと思います。さて私の好きなラジオでは、今朗読で「ラジオも秀吉 吉川英治 新書太閤記」各回15分、255回(要は1年がかりの朗読番組)をしています。なかなかおもしろい内容なのと、最後に「今日のリフレイン」と格言ではないですが、少しその話の内容を強調する、時に生きる上で役に立つような言葉が出てくるのです。毎日8時からやっていますので興味のある人は聞いてみてください。もちろん私はらじるらじるの聞き逃しサービスでまとめて一週間分聞いています。ちょうど今は桶狭間が終わって、信長が忍びで京都に電撃訪問したあたりの話です。今からでも面白いので聞いてみてください。私といえば、ラジオが面白いと思ったので、Kindleで吉川英治の「新書太閤記 全9巻(4500ページ)」を無料セールで手に入れて読み耽っています。その中で非常に貧しい家に生まれて栄養不良だった日吉が、どうやって人と違う珠背を遂げたのか?今はちょうで前半なので、彼の心がけがよく分かります。もっとも強く根底を流れているのが、日吉(秀吉)がどんな境遇にあっても、人から笑われても、自分は侍になって、母親に楽をさせるという人生の目標を失わなかったこと。この場合夢とかいう生半可なものではなく、必ず実現させるという強い意志を持って生きていたこと。次に、侍になる前の段階で、例えば、その日の食事を与えてもらうために農作業と手伝ったし、さまざまなところの奉公した際にも、また織田家に最も下級な地位で雇われた時も、その時その時の仕事の意義を考えて、最大の努力を払っていたこと。つまらないからといい加減な仕事をするのではなく、何かその仕事の中に価値を見出して、または自分なりの工夫をして、仕事の中身を改善していたのです。「現在の職に忠実に」という誓いを持っていたそうです。例えば、織田家でお台所係になった時があるそうです。侍にとってお台所係は、いくら位としては上がったとしても武芸に関係のない職なので、いわゆる窓際みたいな風に取られていたそうですが、藤吉郎は食は家を支える一大事と考え、まず暗い雰囲気が嫌いなので、暗く寒い台所を天窓を作って明るくし、食事が作りやすい環境に変えたそうです。もちろんそのように建物を変えるのは上役始めさまざまな部署のゆるしが必要なわけですが、しっかりとした論拠で論破して、改築をしてもらったそうです。ついで炭奉行になります。炭は冬場に対大量に必要となるわけで、制限しながらケチケチ使わせていたそうですが、藤吉郎は無制限に使って良いことにしたそうです。ただそれまでは皆寒いので、かちこちになって、部署でじっとしていたそうですが、炭は自由に使えるようにする代わりに、日々の鍛錬を日中するような習慣を合わせて進言したそうです。そうすると朝方は寒いので炭をつか買いますが、昼間は体がポカポカして炭の使用量はそれまでの半分以下になったそうです。このようなれは沢山あって、仕事の持つ意味とそれに関連するひろい生活の概念までの考えて、改革、改善してゆくという工夫を日々していたのです。懐草鞋もこの本には出てきませんが、仕事の工夫の一例なのでしょう。またもう一つ彼の考え方の中心を流れているのは、邪な流れのある国は滅びるということです。新書太閤記では流浪していた頃蜂須賀小六のところでこま遣いみたいなことをしてことがあるということで、当時蜂須賀が組みしていた斎藤道三を助けて息子斎藤義龍との争いを補助しようとしたエピソードがあります。その際、この2名のいずれかに士官することを望みませんでした。斎藤道三は主君を騙して美濃を乗っ取り、奥さんも寝取り、息子は親を追い出して(元々は先の君主の子供だったという話ですが)しまった義龍。いずれも邪な人生で、この二人が主君の国はどちらが勝っても長続きはしないと予想していました。その後も日吉―藤吉郎―秀吉はさまざまな困難とぶつかりながらも目覚ましい出世をしてゆくわけですが、出世や偉くなることを目的とするのではなく、与えられた立場、仕事を面白く、とにかく一生懸命、そして周りの人も関係する仕組みも巻き込みながら、いつも改善の工夫をしながら生きていたのです。また彼の特徴は暗い雰囲気は嫌いで、いつも明るく陽気な空気が流れる雰囲気を場を作っていたようです。
もちろん最高位を極めて、太閤となって、さらにお母様を亡くしたのちは、朝鮮出兵も含めて無謀な政策が多かったわけですが、多分そちらは目標よりも世界を席巻しようとした夢を叶えようと無理をしてしまったのでしょう。まだ新書太閤記は中国遠征(対毛利)の途中なので、後半が楽しみです。ただこの本では晩年の15年は吉川の好きな秀吉ではないので、家康との小牧の戦いの後、途中で本は終わっているとのことです。
病院の仕事も、楽しく、明るく、また与えられた役割に一生懸命にやって行ければ、病院はもっと良くなると思いながら、読み続けています。
なかなか大作なので、大変ですが、歴史好きにはおすすめです。大河ドラマも良いですが、場面を空想しながら読むのも良いものです。
雑談:先日久しぶりにインドを訪れました。ムンバイという西側の海外沿いの街で、現在周辺も含めると人口2200万人という大都市です。実は空港近くのホテルで学会で、空港からホテルまでの道しか見れていないのですが、まだまだ建設中の道や建物が沢山あり、ツクツクという3輪タクシーが沢山走っていて、信号はあっても無秩序、店はほぼ掘立小屋です。ムンバイは元々はボンベイと言われた古い都市で、大航海時代に東インド会社の本部があった都市ですので、ぜひ街中まで行きたかったのですが、発表の合間が2〜3時間しかありません。街の中心まで行って帰るには4時間は必要とのことでしたので、残念ながら市内を見て回ることはできなかったのです。何しろ先ほどのような信号があってないような
交通なので、交通渋滞はひどいのです。またインドはITですごいと言われていて、頭脳優秀な人たちが多いわけですが、人口は非常に多く、若い人たちが多い。農村に生まれた人は給与が桁違いな都市にどんどん集中し、インフラの構築も、集居も、環境も追いついていないとのことです。脳神経外科に関しては、現在人口8億人に脳神経外科医が4000人になっているとのことです。歴代の先生方が日本の脳外科医がその教育や発展に貢献しています。
元々インドではヒンズー語という共通言語がありますが、各地域でほぼお互いに通じない数100の方言があり、イギリス統治時代の名残からほととんど人たちが英語を主言語として話すことができます。ですので、いつでも日本はもとより欧米に追いつき追い越せという意欲に満ち満ちでいるので、若い脳外科の先生方の発言力もすごくて、学会では一つの講演ごとに質問が飛び交い、質問時間がとても長いのが特徴です。自分の主張を話したり、純粋に質問をしたりです。今回の学会はそれでもしっかりプログラムされていて、かなり時間管理がしっかりほぼ予定通りに進んでいました。日本と比較すると、社会も学会の中身もかなり異なります。学会で発表されている内容はもちろんエキスパートの発表が中心なのですが、驚くほどレベルの高い話が多かったです。今はかなりインドが発展してきていて国力も増加の一歩ですが、何しろ元気がある国、若い人に溢れる社会がこれからますます大きくなるという確信を得て帰ってきました。
また数年前のインド脳神経学会(脳外科だけの学会はなく、脳神経と脳外科が合併して発展しています)のPresidentだったSingh先生という先生が、ホモサピエンスの脳の発達についてという発表をされていました。いかにもインド人という感じの先生です。4足歩行する動物から2速歩行になり、そして原人からネアンデルタール人などと別れて進化した今の人類ホモサピエンスへの、歴史とその変化の理由をいろいろ調べた内容を発表されていました。あのような文化論的な発表をできる先生は日本では少ないと思うのですが、後で個人的にお話ししてみました。するとSingh先生はもちろん一般脳外科的な発表は毎年するが、その他に年1つテーマを決めて、脳や手術、医学や保健・健康と関係する事象について自分で調べて、発表するようにしているとのことでした。面白い試みだなと感銘しました。真似して自分もまずは何か脳文化的なことを勉強してみようか(そしてもしある程度のものができたら発表してみようか)と思いました。乞うご期待。
インドの大御所脳外科医M Samii先生、藤田医科大学名誉教授の佐野公俊先生と
米国のスーパー脳神経外科医R F Spetzler先生と主催者・友人のB K Misra先生
Singh先生と脳の発達のお話し
大後部tのインド料理の朝昼晩
ムンバイ中央駅(世界遺産) Wikipediaより
アーチゾン美術館で開催されているモネ展(オルセー美術館修造品展)
にて展示のモネの名画 (かささぎの白は素晴らしいです)




