2024年5月5日日曜日

熊本にて:養生と漢方と。

 

熊本にて:養生と漢方と。

森田明夫

先日熊本の脳神経外科医で漢方医学が好きな先生方にお誘いを受けて熊本脳神経漢方研究会という会にお招きいただいた。私が成り行きで(?)脳神経漢方医学会の常任理事とかいう役割を担っているからだと思うが、実際には私は漢方にそれほど詳しくはない。むしろ料理好きで野菜、カレー、韓国料理、沖縄料理などとも関連して健康に関連する食材、薬膳に興味があるので、それが生薬と繋がって、色々と勉強している最中である。また韓流ドラマが大好きなので、特に歴史物には多くの煎じ薬が出てくるので、とても興味を持っていたわけである。そんな素人が1時間も講演するのだから、決まって内容は、自分がどんな漢方を飲んでいて、患者さんで良く効いた方の例、果てはどんな失敗をしたかなどを中心にお話しした。特に昨年は高齢者健康医学センターの立ち上げに関わって、いかに健康に生きるかを考えていた年でもあるので、それに基づいたBlue Zoneのお話しや、養生の話も織り交ぜた。

養生;といえば日本史を学んだ人であれば養生訓(貝原益軒)という名前に聞き覚えがある方もいるかと思う。貝原益軒は本草学(薬草学)に秀でた黒田藩の侍で、藩医として勤めていたらしい。その本を現代風に解釈した本もいくつか出ているので参照されると良い(齋藤さんとかさんと)。特に心は楽しみ、苦しめないことが重要と説いている。下記のような文があるそうです:「ひとは心を楽しませて苦しめないことがもっともよい。が、身体は大いに動かし労働することがよく、休養しすぎてはいけない。(さんのページから)」また2週ほど前にNHKのラジオまい朝の健康ライフで「養生ですこやかに(伊藤和憲さん講師)」とう番組の放送がされていて。NHKホームページで録音を聴くこともできるので参照されると良い(20245/20~まで)。養生とは「心と身体を保ち命をまっとうすること」。そのためには1)季節に即した暮らし、2)安定した精神の保ち方、3)食事の仕方、4)身体の鍛錬、5)病気の予防・未病という考えが大切だとされています。特に気持ちのストレスのかかりかたを見るには顔の前で前腕を拝むようにして肘までくっつけて持ち上げる。つけたまま肘が口の高さまで上がればストレスなそんなにないそうです。私などこの肘は顎にも届かず、精神がかちんこちんらしい。次は血・水のこと。舌をみて淡いピンク色なら良いが白っぽかったりどどめいろだったりすると、舌は筋肉そのものを見ているので、貧血だったり鬱血していたりしている体の状態らしい。最後に筋肉や体力を見るには指輪っかテストである。両手の親指と人差し指で輪っかを作って、それが右下腿の太いところを簡単に囲めて、隙間があるようであれば、筋力低下、Frailの状態であることがわかる。それぞれにあった体調管理、季節にあった食事や運動の仕方などを講義されていた。この講習の流れはまさしく漢方医学のコンセプトに沿っていた。

漢方医学では特に体調や心の状況に応じて病を見極め、体調を治す治療をしてゆく。西洋医学はデータを見て診断に基づき病気を治療するが、漢方医学は人の体調や症状を見て、その証に応じて診断というより対症療法という形で体調を改善させて病気を追い出すという治療を行う。どちらが優れているというわけではないが、我々西洋医学を学んだものも、漢方医学の体調や心の状態を見極める技が必要だ。それが漢方を勉強する意義かなと思っている。最近は西洋医学の癌治療でも免疫療法が再認識されており、体を強めて、病気を追い出す、または共生するという考え方が普及しつつあるように思う。

さて私の漢方に関する失敗といえば、痩せたいあまり防風通聖散(よく宣伝されているナイシトールZと同じもの)と大黄甘草湯を一緒に飲んでいつも便秘がないように飲みまくっていたので、とうとう大腸メラノーシスとなってポリープまでできるようになってしまったことである。1年間ピッタリと上記2薬をやめるとメラノーシスはまだ治らないが、大腸ファイバーで2年続いたポリープ新生が今年はできずに済んだ。このまま放っておいたら大腸がんでもできてたかもしれないということ。何事も過ぎたるは、、悪!ということです。でも上記を休薬したために体重は、増える一方なのも確かです。食事量を抑えないといけません。

もう一つの失敗は、韓国Seoulにある東大門市場近辺にある元祖薬膳タッカンマリが非常に美味しかったので、漢方薬やら色々混ぜればあんな鍋つゆができるかと思って、キノコの成分がたくさん入っている五苓散を元にスープの元を作ったら、これが非常に不味かったことである。五苓散には桂皮(いわゆるニッキ、シナモン)が入っているので、ちょっと鍋にはそぐわない味となってしまったようである。上記の会の後の懇親の場では、やはり散剤ではなく湯剤(日本の漢方薬には粉のまま飲んで良い散剤とお湯に溶いて飲んだ方が良い(溶かなくても良いが)湯剤がある。)を使えば良かったのでは、、という意見が出た。でも今私が二日酔いどめ(二日酔いの時にも)によく服用している黄連解毒湯などは、苦くて苦くて、鍋には不適だと思う。それやこれや、色々な漢方薬や生薬のお話しをさせていただいた。

口伝や伝統で繋いできた漢方薬の知識にも西洋医学と同様に多くの論文やエビデンスが出始めている。西洋医学の薬は、上記の免疫賦活剤を除けば、何らかの化学反応を抑えることによる薬剤が多い。要は抑制の医学である。一方漢方薬には「補」というコンセプト、足りないものをたすという機能がある。これらのを元にうまく西洋医学の治療に合わせて現在も治療が困難な疾病の治療に役立つ医学が打ち立てられると良いと考える。特に心の健康と体を保つための日常の食生活や運動、精神の安定の保ちかたの訓練、養生訓からそして体調に合わせた適度な(無茶には飲まない)漢方処方と遺伝子診断に基づく西洋医学などを取り合わせれば、健康な人たちがさらに増えて、健康な社会、そして人に優しい社会になるのではないかなと思う。

 

雑談:

ところで特に歴史韓流ドラマでは漢方医学がよく出てくる。東医宝鑑という書物を記した許(ホ・ジュン)という実在人物はこれまでの何度かテレビドラマ化されている。すごく長いが感動を得られるドラマである。秀吉が朝鮮を攻めた頃の話である。東医宝鑑は漢字で書かれているので、頭痛とか川芎茶調散などの文字が読み取れる。またというドラマも最高だ。こちらはフィクション性が高いが、馬の医者があまりに鍼灸の腕がよくて手術までできるようになり、人の医療しまいには皇帝の侍医にまで上り詰めるという話である。チャングムの誓いは料理と韓国ドラマ、、最高の取り合わせで、鮑の肝をおかゆに入れると肝臓に良いなどという話が出てくる。韓国の時代劇にはよく医療の話が出てくる。日本だとせいぜい花岡清州か仁か?というところだが。なぜ日本は時代劇だと戦国の争いの話ばかりなのか?もう少し世相や庶民の話が出てきても良いのではないかな、、と時に思う。

さて熊本についてであるが、先に触れた会の翌日が日曜だったので、今回いくつかしたいことがあった。一つは熊本城が震災で傷んだが天守まで上がれるようになったというので、再訪すること。2つめはNHKの番組で特集されていた細川亜衣さんという料理家の家(細川家の菩提寺の跡:泰勝寺跡)とその雰囲気を見てきたいこと。3つ目は「A列車で行こう」という映画が元(未確認?)で作られた特別車両で天草口まで行くことである。

熊本城はものすごく立派で広大な城でもちろん加藤清正が築いたことで知られている。豊臣秀頼を連れて徳川から守るために作ったとも言われている。西南戦争で新政府が立てこもり西郷が攻めあぐねて、西郷は政府に負けたのではなく加藤清正公に負けたと言ったくらいで、近代の戦争においても頑強な城であったことがわかる。泊めていただいたホテル日航からは素晴らしい城の姿が一望できる。今の天守は西南戦争で消失したため、戦後コンクリートで再建されたものだ。ただ震災で瓦がほぼ全部落ちた時は干物になったようだと熊本の先生方がおっしゃっていた。今は瓦も復元し、石垣も復元中である。あと数10年は復旧にかかるそうである。残念ながら江戸時代のまま残っていた宇土櫓が地震で崩れたので復旧途中とのことである。1周は約5kmで歩くと1時間は要する。本当にものすごい石垣と、そして樹齢数百年の大きな楠木がたくさん城内に見られるのは圧巻であり、熊本城が熊本の人たちの心の拠り所なのがよくわかる。

次に泰勝寺跡に行ってみた。一般公開されているのかもわからなかったが何か陶磁器のイベントのようなものをしていそうだったのはいらせてもらうと、白磁を部屋にずらっと並べてあった。キッチン・厨房ではその日 台湾茶会があるそうで準備をしていた。残念ながら次の予定の時間の関係でそちらは参加できなかったが、今思うと非常に残念だった。細川さんの本「旅と料理」の最初の項が台湾とお茶の話だからである。本当に残念。。ただ泰勝寺跡の周りの森は、すごく静かで森の緑がすごく優しくて、細川さんが熊本からは離れられない。というのがよくわかる。私の後輩(開成・東大)で熊大の脳外科の教授になった武笠先生も家族みんな関東出身だが、熊本は空気、食べ物、教育が良くて、「引退後関東には帰らなくて良いよ」と言われているそうである。いいですね。

最後はA-Train。ジャズのTake The A-Trainの流れる二両編成の素敵なディーゼルカーで熊本から三角への1時間の旅である。一両目には洒落たバーが設置してあって、とても素敵な車内である。車窓からは有明海と宇土からの里山風景が流れます。途中の織田(orita)駅は県内最古の木造駅舎で、20分停車して、地元のジャズバンドがジャズを奏でてくれていました。三角の西港は明治産業遺産として世界文化遺産登録されているらしく古い洋館や護岸があります。ちょっと八朔ハイボールでほろ酔いでしたが、素敵で楽しい1時間でした。ちょっと帰りの列車が遅れて帰京の飛行機に間に合わないかが心配でしたが、楽しい熊本旅。空港で時間がなくて、馬刺しと辛子蓮根を買って帰れなかったのは残念ですが。

 

今回はちょっと小旅行の報告と養生の大切さです。みなさんも楽しく生き生きと生きましょう。養生訓からも「人生楽しむことが肝要」だそうです。

 

防風通聖散に含まれる生薬と効果:ぽっこりお腹に効果ありますが飲みすぎないように

黄連解毒湯に含まれる生薬と効果:二日酔いどめに使ってます

 

 アジアの薬膳料理

 

 

沖縄のイラブー汁

 

 

インドOld Delhiの混沌



インドの料理教室にて

 


 

熊本城:

長塀・飯田丸の大楠(樹齢800年)

ホテル日航からの熊本城・二様の石垣

 


泰勝寺跡(細川亜矢さん厨房)

 


 

A列車で行こう

織田駅にて・三角西港

織田駅のライブ・車内バー


 

 


 


 

2024年4月19日金曜日

春の散歩:ハルジオンとヒメジョオン

 

お詫び。

雑談:春の散歩:ハルジオン(春紫苑)とヒメジョオン(姫女菀)

                                    東京労災病院 森田明夫

 

先日来報道されています通り当院職員整形外科副部長が収賄容疑で逮捕されるという事象が発生してしまいました。患者様、ご家族、近隣の医療機関、関連の方々には大変なご心配とご迷惑をおかけし大変申し訳ありません。当院では本件を厳粛に受け止め、警視庁の捜査に全面的に協力するとともに、このようなことが二度と起こらないように、院内のコンプライアンスを徹底的に強化してまいります。また診療については、救急対応、連携医療、外来、入院治療、手術治療など含め粛々と滞りなく遂行できる体制を整えておりますので、安心してご紹介また受療していただければ幸いでございます。

本当にご心配、ご不安をおかけし申し訳ございません。

 

さて 今日の話題は、今朝のラジオの内容です。Yumingの歌にハルジョオンヒメジョオンというがあるのをご存知かと思いますが、皆様ハルジオン(正式には漢字で春紫苑)とヒメジョオン(漢字は姫女菀です)の違いをご存知だったでしょうか?今朝のマイあさで千葉県立中央博物館の尾崎先生が2種の違いを説明してくれました。我々が普段よく街中で見かけるのはハルジオンらしいです。これらの名前を聞いて、皆さんは雑草っ!!!(昔よく貧乏草とも呼ばれていたそうです)と思うのではないかと思いますが、元々はどちらも観賞用に輸入されたキク科の品種だったそうです。よく見ると可愛い花です。どちらもひまわりと同じで真ん中の黄色いところは筒状花という筒状の花の集合で、周囲の花弁と思えるものが状花というもので1枚の花びらごとに雄蕊雌蕊があって、それぞれ種を作るので、絶大な繁殖力があるそうです(川崎教育センター)。2つはとても似ている花ですが、通常関東とかでよく見かけるのはハルジオンです。花弁が毛のように細く、蕾が下を向いていて、茎が中空、葉が茎の周りを少し囲むようで出てるのが特徴で、一方でヒメジョオンは花弁が少し広く、蕾は上向、茎は詰まっていて、葉は素直に出るそうです。

では本当かと労災病院の近くの森ケ崎公園と森ケ崎海岸公園を散歩してきました。森ケ崎公園は水再生場の上に作られたかなり広い公園で、ラグビーやサッカーもできる競技場、充実した遊具を備えた遊技場もあり、また羽田空港を一望できる展望デッキまでできています。たくさんの親子連れや子供さんが遊び、競技をしていました。そちらは綺麗に除草され植木が整えられておりあまり野草はありませんでした。その公園の周囲には先日紹介した森ケ崎海岸公園がありますが、そちらに行く途中にはたくさんの野草が生えており、目当ての花もありました。ただヒメジョオンは見つかりません。今時はオレンジ色のポピー/ひなげし、ハルジオン、たんぽぽ、オオバコ、カタバミ、聞き慣れないところではハナイバナなんていう花が咲いています。(ハナノナ というアプリ様様です) もちろんまだ八重桜も咲いてますし、春はよく見ると綺麗な花がたくさん咲いていますね。今朝は養老先生(大学時代の恩師です)がサタデイエッセイをお話しされていましが、野生の草花が少なくなったので、虫が少なくなったと嘆いていらっしゃいました。虫を見るのが大好きだそうです。ちなみにハルジオン、たんぽぽは蜜が豊富らしくたくさんのミツバチやアブが飛んでました。

ハルジオンの茎を見るために実は2本ほど手折って持ってきてしまったのですが、家に着く頃にはしなっとしてしまっていたのが、なんとすぐに勢いを復活しています。相変わらず蕾は下向いてますけど。4時間後には開花しました!

外来種で日頃見慣れている雑草かと思いましたが、改めて愛着が湧きました。

 

良い季節になっています。皆さんも散歩に出て、野の花探しでもしてみてはいかがでしょうか?

ヒメジョオンが見つかるかもしれません。

 

 

 

写真:

森ケ崎公園にて

 


ハルジオン

 

 

2011年五反田のNTT東日本関東病院の社宅に咲いていたハルジオン:綺麗な花です。貧乏草ではないと思います。


 

 

 

たんぽぽ

 


 

その他の草花

 


 オオバコです。宇宙的な表情。


森ケ崎海岸公園にて

 


 今朝の朝焼け

 

手折ったハルジオン 4時間で開花開始!

あれから一週間:ハルジオン満開です。


追記:2024年10月とうとう姫女菀に出会えました@銀山平(尾瀬)

花弁が春紫苑より広くて綺麗な花です。


 


 


―続くー

2024年4月13日土曜日

福島孝徳先生を偲ぶ:再会を期待して!

 

福島孝徳先生を偲ぶ:再会を期待して!

森田明夫

(ちょっと専門的な記載があるので、あまり一般向けではありません)

    恩師である福島孝徳先生が亡くなった。ご本人の意思で亡くなった詳細はわからないが、一昨年くらいから腎臓の不全などの体調の不良や検査データをお聞きして心配し、また昨年9月にバルセロナのヨーロッパ脳神経外科学会で先生を称えるセッションがあった際、いつもの迫力のなさを見てものすごく心配していた最中である。私は凡庸な脳神経外科医であるが、福島先生に刺激されて洗脳されて、今まで頑張ってきたように思う。以前先生と師とする喜びを書いたことがあるが(前部長ブログ福島先生のこと洗脳師とする喜び)、その時は先生はご健在だったので、ご容赦いただけると思い、ちょっとふざけた(事実ではあるが)内容が多かった。

福島先生の偉大な業績については、多々提示されているので別に譲る。ここでは私が個人的に接してきた福島先生についてMemorialとしたい。

先生と密にご一緒したのは、1984 年から86年の3年間弱、私の脳神経外科専修医としてトレーニングの最も重要な時期を先生と過ごしたことになる。毎日のように「超一流を目指せ!」と専修医には言い、そういうご自分も、日々新しい手術、他とは違う医療のレベルを目指しておられた。先生の夢は「福島手術!」というジャンルを作ることだったと思う。当時先生は40歳くらいで、その若さで三井記念病院という都内の一流の病院の部長を任せられていたわけなので、東大の教授たちの信頼を一身に受けていらした。私はまだ専門医をとっていなかったので、全てをわかっていたわけではないが、印象に残っている最大の教訓は、「出血を徹底的に抑えること。中途半端な止血で次のステップに行かないこと。」先生がおっしゃっていらしたのは、「最初は時間がかかるかもしれないけど、ステップステップをしっかりやってゆくことで、自然とスピードもついてくる。手術は早くやろうとするな、ステップをしっかり踏むことで、自ずと無駄がなくなりスピードもついてくるというものだ。」外来の脇にあった医局ではその日にあった手術を当時4~5名ほどいた医局員で話あった。あの手技はなんだ?どうしてあのような針を使うのか?なんであんなに早くできるのか?驚いたのは90歳の三叉神経痛の患者さんの脳神経血管減圧術(以下MVD)を計画された時、皆が「ブロックで治療の方が良い」と思ったのだが、福島先生は手術を実施され、なんと手術時間はSkin to Skin15分以下だった。もちろん福島先生はそれまで高齢者のMVDで慢性硬膜下血腫ができたことがあり、特に高齢者では頭頂部を少し下げて、空気がテント上(大脳のある頭蓋)に行かないように努力していた。患者さんは何の合併症もなく一週間で若い患者さんと同じように退院された。それと当時課題だったのが、人工硬膜(ヤコブ病で有名になってしまった人死体硬膜)を用いて硬膜を閉鎖した後に起こる無菌性髄膜炎症状であった。ステロイドの髄注など様々な対応をしたが、あまり良くなることはなかった。ある日突然、先生が、手術の最中に筋膜の一部を採取して、それを硬膜閉鎖の時にパッチとして使うようになった。その途端に、それまで医局の最大の診療課題が完全に解消された。手術のone-stepで全てが変わる。というのを間近でみて、些細なことでも手術ではすべてのステップがそれぞれが極めて重要な要素であることを知った。

福島先生の手術が最初から、ものすごかったわけではない。もちろん福島先生の東京での名声は広まり症例は毎手術日に6~7件の手術を行い、中には非常に難しい(今の私が見ても)手術も含まれていた。時にはうまくゆかないこともあった。ものすごく落ち込んで、周りが手もつけられない程に萎れてしまった福島先生を何度も見させてもらった。ただ必ず翌日にはものすごく元気になっており、不元気を絶対ひきづらない。そして同じような困難な手術が次回にある時にはどこから聞いて教えてもらってきたのか?自分で考えたのか?全く異なる手術技術を用いて、難なく合併症をきたさずに手術をされた。要は絶対に同じ過ちは繰り返さない。徹底的に悩み、打ちひしがれ、回避する方法を塾考して実施する能力を発揮されていた。以前書いた切ってはならない神経を切ってしまって、手術室の壁を半分くらい登ったのは事実である。そのような今となっては本当におかしな所作は数限りない。

また先生は子供のような無邪気さを兼ね備えていた。自分のことを「僕はね、、僕はね、、」とおっしゃるのが口癖で、自分の気持ちを素直に話される。息子さんを含めてスキー旅行に医局で行ったこと。眩しそうな顔で息子さんを見ていた顔。明治神宮の脇にあったご実家に伺った際に、お母様が「この子はやんちゃでね〜〜。皆さんにご迷惑をかけているのではないか心配ですよ。」と先生の頭をゴシャゴシャとしていた。その時の先生の子供に戻ったような恥ずかしそうな顔を覚えている。

当時も最近も文字通り福島先生は言動に困ったところもある人で、あまりよく知らない人には「変人の一人」と思われていたかもしれないが、よく知る医局や知人には本当に敬愛されていた。

私が先生の元を離れてから、情熱大陸での放送をきっかけに先生の人生は大きく変わってしまい、他の病院からの出張手術も爆発的に増え、そして活躍の舞台を海外へ展開することになる。もちろん、先生の手術に対する思いやコンセプトが世界の多くの脳神経外科医に広まったことは本当に喜ばしいことなのは確かだ。ただ、技術的なシャープさばかりが評判となり、みな手先の器用さを賞賛することが主で、先生のその技術を支える一例一例への執念のような考察と術中術後の管理の徹底を重視する姿があまり理解されていないように感じている。そしていつも誰も治療し得ない患者に対する新しい手術や手技を求める一生続いたQUEST(追及の強い意志)を皆さんにわかって欲しいと思っている。

脳神経外科領域は1980年代はまだ黎明期で、わからないことも多く、画像技術も不十分(MRIなど日本に数台しかなく、画像もひどいものだった)、そしてマイクロ手術も、本当の意味で使いこなせていたのは日本でも数名であったように思う。福島先生はそのようなな中で日本の脳神経外科、世界の脳神経外科のレベルを数百段ステップアップしてくださったと思う。あれから40年経って、脳外科や医療は大きく様変わりしたと思う。画像など当時信じられないような神経繊維の走行や機能まで見ることができるようになった。でもまだまだ困難な疾患は多くあり、我々が超えて行かなければいけない山はまだまだ先に高く聳えている。

福島先生が教えてくださった。

1)   慌てないで、ステップをしっかり一つ一つしてから、次にゆくこと。

2)   同じ過ちを決してしないこと。

3)   患者の状態や検査を徹底的に調査し、最適な治療法、なければ新しい治療法を考えて最善を尽くすこと。(不可能への挑戦ビデオ

を守って進んでゆくことで、我々にも今後の医療を進歩させることができると信じる。

 

福島先生から教えていただいた根性(一週間月・月・火・水・木・金・金・土・日 休んでいる暇なんて無い!働くべき1週は7日だけじゃない:今の働き方改革など論外と思われていたと思う)、最先端への導き(毎日のように、念仏のようにアメリカに行け!英語を勉強しろ!と言われ続け、米国に9年間行くことになった)、常に新しいことを、患者の最良の結果を導く方法を考案しろ!という洗脳・教えは私にとってはかけがえのない道標である。

そんな道標を自分に授けてくださったこと、そして厳しくも温かい40年以上にわたるご指導に深く感謝したい。

よく欧米ではRIP: May his soul rest in peace!という言葉を使うが、予想するに福島先生の魂は、さていつ生まれ変わって宇宙旅行時代の宇宙の医療をどうしてやろうか?と考えている頃かと思う。もし私も生まれ変わることができるのであれば、ぜひにまたお会いしたいと思う。

またお会いする日まで!「本当にありがとうございました。」

 

三井記念病院にて


 

 三井記念病院でのスキーツアー1984冬 向かって最左が福島先生、右端が森田


米国にて



 

MVD2020学会でランチョン講演をしていただきました。


 


MVD2020で配布された手書きの手記(情熱たっぷり)

 




 


 

森田の日本医科大学教授退職記念会にて


EANS2023 Fukushima Symposiumを終えて集合写真(最後にご一緒した写真)


 

ENGLISH VERSION:

     In Memory of Prof. Takanori Fukushima: Hoping for a Reunion!

 

Akio Morita

 

(The contents is not really for the general public as there is a bit of technical description)

 

                  My mentor, Prof. Takanori Fukushima passed away. I do not know the details of his death since he did not wish to disclose any info. But I was worried when I heard about his health problems such as kidney failure and test data from the year before last, and I was also extremely concerned when I saw the lack of his usual energy during the symposium  honoring him at the European Congress of Neurosurgery in Barcelona in September of last year. I am an ordinary neurosurgeon, but I think I have been inspired and brainwashed by Dr. Fukushima and have been force to work hard until now. I once wrote about the joy of having Dr. Fukushima as a mentor (former director's blog: Fukushima Sensei: Brainwashing and the Joy of Being a Mentor), but since he was still alive at that time, I thought he would forgive me and many of the contents were a bit jokey (although true).

 

I will leave the great achievements of prof. Fukushima for another time, as they have been presented in many articles. Here, I would like to write a memorial about my personal contact with Dr. Fukushima.

 

I worked closely with Dr. Fukushima for a little less than three years from 1984 to 1986, which was the most important period of my training as a neurosurgeon. Every day, he would say to his residents, "Aim for the very best, to be a super neurosurgeon!" and he himself was always striving for new surgeries and a different level of medical care every day. I think his dream was to create a genre called "Fukushima Surgery!” He was about 40 years old at the time, and at such a young age he was entrusted as the head of the department of Mitsui Memorial Hospital, a leading hospital in Tokyo, so he had the full trust of the professors at the University of Tokyo and others. I had not yet become a board certified neurosurgeon at that time, so I did not understand all his medical talents, but the biggest lesson that left an impression on me was, "Thoroughly control bleeding. Don't go to the next step with a half-hearted attempt to stop the bleeding." He said, "It may take time at first, but if you do it step by step, the speed will naturally increase. Don't try to hurry during surgery. If you follow the steps carefully, you will naturally become leaner and faster. In the doctor's office next to the outpatient clinic, about four to five members of the neurosurgical team of Mitsui Memorial Hospital discussed the day's surgeries. What was that technique? Why does he use that kind of needle? How could they do it so quickly? What surprised us was that when he planned to perform cerebral neurovascular decompression (MVD) on a 90-year-old trigeminal neuralgia patient, everyone thought it would be better to use a block, but Dr. Fukushima performed the surgery, and to our surprise, the surgery took less than 15 minutes; skin to skin. It was the fastest surgery I ever seen ad microsurgery. Of course, Dr. Fukushima had previously had chronic subdural hematoma in elderly patients with MVD, and he made an effort to lower the parietal vertex a little to prevent air from going over the tent (cranium where the cerebrum is located), especially in elderly patients. She was discharged within a week without any complications, just like the younger patients. The another challenge at the time among in our department was the aseptic meningitis symptoms that occurred after the dura mater was closed using an artificial dura mater (the human cadaver dura mater that became famous for Jacob's disease). Various measures were taken, including intrathecal injection of steroids, but the scenario did not get much better. Suddenly one day, Dr. Fukushima started taking a piece of fascia during surgery and using it as a patch during dural closure. As soon as that minimal change, the biggest medical issue in the department until then was completely eliminated. One-step in surgery changes everything. And I learned that every step in surgery, even the smallest one, is each an extremely important element.

 

       It is not that Fukushima Sensei's surgeries were amazing from the beginning. Of course, Fukushima Sensei's fame in Tokyo spread, and he performed 6~7 surgeries on every surgery day, including some very difficult (even by my current standards) surgeries. Sometimes things didn't go well. I saw many times, Fukushima Sensei got so depressed and became so weak at the corner of department that those around him could not do anything about it. However, the next day, he was always extremely energetic and never let his depression get the better of him. And the next time he had to perform a similarly difficult surgery, where did he get the information from? Did you think of it yourself? He performed the surgery without any complications, using a completely different surgical technique. In short, he will never repeat the same mistake. He was thoroughly distressed and devastated, and demonstrated the ability to think of ways to avoid them and implement them. It is true that he cut a nerve that should not, which I wrote about earlier, and climbed halfway up the wall of the operating room. Such truly strange gestures are now countless.

 

Prof.Fukushima also had the innocence of a child. He was fond of saying, "I am, I am, I am," and would speak frankly about his feelings. We went on a ski trip together with his medical office team, including his son. The look on his face as he looked at his son with a dazzled expression. When we visited his parents' home by the Meiji Shrine, his mother said, "He's so naughty.... I'm afraid he's bothering you all." and she was gesticulating at the teacher's head. I remember the look of embarrassment on his face, as if he were a child again.

 

Both then and recently, Dr. Fukushima was literally a person who had some trouble with his words and actions. Those who did not know him well might have thought he was "one of those weirdos," but he was truly respected and loved by the medical staff and acquaintances who knew him well.

 

After I left him, his life changed drastically following the broadcast of "Jounetsu Tairiku" (Continent of Passion), which led to an explosive increase in the number of surgeries performed at other hospitals, and the expansion of his activities to overseas. Of course, I am very happy that his thoughts and concepts about surgery have spread to many neurosurgeons around the world. However, I feel that the public has not really understood his obsessive consideration of each case and his emphasis on thorough intraoperative and postoperative management that support his techniques, since his reputation has been built only on his technical sharpness and everyone praises his manual dexterity. I also hope that everyone understands the lifelong QUEST (strong will to pursue) to seek new surgeries and procedures for patients that no one else has been able to treat.

 

In the 1980s, the field of neurosurgery was still in its infancy, and there were many things that were still unknown, imaging technology was inadequate (there were only a few MRI machines in Japan, and the images were terrible), and micro-surgery was something that only a few people in Japan were truly able to master. Under such circumstances, Dr. Fukushima has raised the level of neurosurgery in Japan and the world by several hundred steps. Forty years have passed since then, and neurosurgery and medical care have changed dramatically. It is now possible to see the running and function of nerve fibers in a way that was unbelievable at the time, such as with imaging. However, there are still many difficult diseases, and the mountain we must overcome still rises high ahead of us.

 

Dr. Fukushima taught us the followings:

 

(1) Don't panic, take one step at a time and then move on to the next.

(2) Never make the same mistake again.

(3) Thoroughly investigate the patient's condition and tests, and do your best to find the best treatment, or if not available, devise a new treatment. ( Challenging the Impossible Video)

By following his LESSONS, I believe that we can make progress in the future of medicine.

 

The guts that Dr. Fukushima taught me (“a week is Mon, Mon, Tue, Wed, Thu, Fri, Fri, Sat, Sun. There is no time for rest! There are not only 7 days in a week to work”: I think he thought that the current work style reforms were out of the question), aim to reach the cutting edge (Told me “Go to the US” every day, like a reminder! “Study English!” I ended up going to the U.S. and stayed there for 9 years), and to always do something new and invent methods that lead to the best possible outcome for the patient! This brainwashing and teaching has been an irreplaceable guidepost for me.

 

I would like to express my deepest gratitude to him for giving me such a guidepost and for his strict but warm guidance over more than 40 years.

 

In the West, we often use the phrase RIP: May his soul rest in peace! But, I guess his soul is wondering when he will be reborn and what he will do for space medicine in the era of space travel. If I also can be reborn, I would love to meet him again.

 

Until we meet again! Thank you very much.

 

Translated with Deep L.com (free version)

 


 

 

 

―続くー

Yaşargil先生を偲んで

  Y   Yaşargil 先生を偲んで                                                                                            森田明...